元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

華氏451度

華氏451度』レイ・ブラッドベリ(伊藤 典夫 訳)

オススメ度 ★★★★☆

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今回は、アメリカ国民文学として盤石な地位を築きつつある、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』です。

いわゆる「ディストピア小説」の一種で、ありていに言えば「考えることの大切さ」とか、「人類の知の営みをつないでいくことの重要性」がテーマとして据えられているような印象です。「満足な豚より、不満足なソクラテス」という文句がぴったりの小説だと思います。

ジョージ・オーウェルの『1984』とも扱っている題材が似ていますね。書かれた年代も同じくらいですし、当時の社会では(いまもですが)、監視社会とか、人類の思考の自由みたいなものが、とても大きなテーマだったのでしょうか。

ちなみに、『1984』も当ブログで一度扱っています。

jigglejiggle.hatenablog.com

オーウェルが『1984』で究極の締め付けによる監視社会を描いてみせた一方、ブラッドベリの『華氏451度』では、氾濫するほどの娯楽を与えて、大衆がおのずから思考を放棄するように仕向けるタイプの社会が描き出されており、真逆のアプローチで社会の問題に向き合ったというのが、面白いところかなと思います。どちらも極端な架空の社会ではありますが、華氏451度』のほうがなんだか現実味があって、空恐ろしいような気がするのは私だけですかね?

以下、ネタバレ込みで感想を書いていこうと思います。

 

1984』の主人公ウィンストンと同様、『華氏451度』の主人公モンターグも、主体性が感じられない主人公ですよね。肝心の本を盗む場面など、要所要所で「自分の手が勝手に動いた」と述べる箇所があって、自分でいろいろ悩むタイプの主人公というよりは、舞台装置として周囲の影響を受けて動いていくタイプの主人公だと思います。

 

さて、そんなモンターグと交流をして、彼に影響を与えていく人間は、大きくわけて4人います。

最初に挙げる2人は、本を忌む世界において「体制派」とでも呼べる陣営に属する2人です。

①モンターグの妻・ミルドレッド

華氏451度』の世界における、「The 大衆のひとり」です。自分の頭で何か難しいことを考えたことなんかなくて、いつも外側から奔流のように流れ込んでくる娯楽に身を任せています。

物語の序盤で自殺未遂?を起こします。結構唐突なエピソードで、処置を受けたあとは、本人も自分が起こしたことなどさっぱり忘れてしまうので、なんのエピソードなのかよく分かりづらいのですが、自分の生き方の空虚さに気づくときがあっても、思考をしたことがないために問題の言語化・解決策の策定ができなくて、衝動的に自殺をはかった…ということが言いたいのかな、と解釈しました。ミルドレッドの処置に来た二人組が「最近同じような患者が多い」とモンターグに話しているので、思考をしない人間ばかりの社会の脆さみたいなものを描きたかったのかな、と思います。

 

②モンターグの上司・ベイティー

ミルドレッドと同じく、本を忌む世界の賛成派ですが、自分で選択の余地なく社会の多数派に組み込まれているミルドレッドと違って、ベイティー自ら進んでこの世界を受け入れているように見えます。事実、作中では、一般人が読めない本から様々な文句を引用してモンターグをやり込めようとしていて、本を忌む世界の外側を知っていることが示唆されます。

モンターグは、ベイティーを焼き殺すという少々残酷なシーンがあるのですが、これはモンターグの逃走劇の契機としてよりも、モンターグがこれまで受け入れてきた社会との決別という象徴的な意味で、とても大事なシーンではないでしょうか。

 

残りの2人は、本を忌む世界を憂い、本を守ることで人類の知をつなぐという伝統を秘密裏に守っていこうとする陣営の2人です。

③隣人の女の子・クラリス

モンターグが本を忌む世界の外側を知る、きっかけを与えてくれる女の子です。途中退場してしまうのですが、モンターグの精神にはその後も深い影響を与えていきます。

 

④モンターグの導き役・フェーバー

クラリスがいなくなってしまった後は、フェーバーがモンターグとタッグを組んで、モンターグの反逆を支えます。ベイティーがモンターグの説得を試みるシーンでは、フェーバーも小型通信機のようなものを通して話を聞いていて、モンターグを鼓舞します。このシーンは、モンターグの中で、本を忌む世界のイデオロギーと、本を守る世界のイデオロギーが対立している構図になっていて、本書の象徴的な場面のひとつです。

ベイティーを殺害してしまったモンターグに対し、森にいけば知をつないでいく伝統を守って身をかくしている人々に会える、という助言をあたえるのもフェーバーです。

ちなみに、モンターグがこの森を歩いているとき「クラリスもきっとここを通った」と確信するシーンがあるのですが、物理的な意味でクラリスが通ったという意味以上に、本を守って人類の知をつないでいく営みに、クラリスが身をおいていたという精神的な意味が重ねられているのかなと思いました。

 

ラストシーンには、批判も多いようです。

結局、大衆の住んでいる街は爆弾が投下されて消滅し、本を忌む世界の終わりがやってきます。本を守っている側が知識人層として描かれているので、このシーンは「ジェノサイド」と揶揄されることもあるみたいです。しかし、訳者が紹介している福島 正実氏の指摘には、ブラッドベリが本書を執筆する動機にマッカーシズムの持っていた盲目的、狂信的な反知性主義をゆるすことができなかった」ことがあり、「個人の尊厳や精神の自由に危機をもたらすもの」を「人間の持つ盲目の力のひとつである、科学・技術の中に見た」とあるので、生き残る側がいわゆる知識人層になってしまったのは、致し方ないのかなとも感じます。あと、これは完全に推測ですが、『華氏451度』の中でも聖書の文句をかなり引用しているので、ノアの箱舟のようなオチをつけたかったのかもしれません。

 

ブラッドベリ自身も、本作の執筆には苦労したところも多かったようで、ミルドレッドの自殺のように突拍子のないエピソードだったり、モンターグもミルドレッドも出会った場所を忘れているというような、物語の進行に活かされきっていない設定が散見されます。ですが、ベイティーと対峙するときや逃走中の緊迫感など、面白く読めるところもあったと思います。個人的には『1984』より好きかなー。