元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

1984

1984ジョージ・オーウェル(田内 志文 訳)

オススメ度 ★★★☆☆

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教養として一度読まなければなぁ、と思っていたオーウェルの『1984』。

どうやら、この角川文庫のバージョンは新訳みたいですね。

 

さて、『1984』を読まれた皆さん、どのような感想を抱かれましたか?

私はこの新訳を読んだだけで、原書や他の翻訳にあたったわけではないので、この小説の真価を把握できていないだけなのかもしれませんが、一読した正直な感想は「イマイチだな~」というところでした。

(※ここから先、ややネタバレを含みます)

●『1984』はイデオロギーの書

オーウェルの『1984』と聞けば、監視社会・全体主義批判とすぐ連想ができると思います。

ですが、この全体主義という言葉、少し注意が必要だと思います。私なんかは「全体主義」ときくと、ヒトラームッソリーニ、第二次大戦下の日本などをまず連想するのですが、オーウェルが本書の執筆に際して念頭においていたのは、共産圏(さらに言うとソ連であり、スターリン)だと思います。本書が執筆された年代が1940年代後半だということを考慮してもまず間違いないでしょう。世界が冷戦構造に巻き込まれていく中で、英国は西側のいわば代表格ともいえる国だったでしょうから、英国人であるオーウェルは共産圏を痛烈に批判する本書を書いたわけです。

 

少し脱線しますが、本書が執筆された1940年代後半、いわゆる西側諸国にもまだ濃淡があった時期だと思われます。例えば、第二次世界大戦後のフランスでは、「共産主義」というワードに必ずしもネガティブなイメージが付与されていたわけではありません。フランスは戦時中、ナチスの侵略にひどく苦しみましたが、そのときにレジスタンスとしてナチスと戦い続けたのが、共産主義者を中心とする左派グループだったからです。事実、戦後はサルトルが圧倒的な支持を得ていた国ですからね。英国とは事情が違ったのは容易に推測ができるところです。

 

したがって、『1984』は、多分に当時の時代背景、英国という国の立場を反映したイデオロギーの書であると思います。

 

●『1984』の価値 

一方で、本書の優れているところは二重思考やニュースピークなど、小説の設定部分の緻密さです。現代に生きる我々からしてみれば、マスメディアの台頭、SNSの発達を経験しているわけですから、オーウェルの主張を理解するのも容易いわけですが、1940年代の当時にこれまでの舞台装置を「発明」し、人間の思考の操作の容易さ、みたいなものを説いたオーウェルの先見性は確かに卓越したものだったのではないでしょうか。本書がイデオロギー的な言説を含みながら、ソ連崩壊後30年もたとうとしている現代においても鑑賞に耐えられる小説であるのは、ひとえにこの点のおかげでしょう。

 

ですが、上述の通り、SNSが隆盛を誇っている現代の我々にとっては、人間の思考や世論の操作の容易さみたいなものは、いわば常識の範疇に含まれるべきものでもあって、わざわざ本書を読んで新鮮な気づきとしてこれを受け取ることはあまりないのではないかと…。あっても、あらためて拷問のような身体危害を伴う思想統制にゾッとするくらいのもののような気がします。

 

●監視社会について考えること

現代の我々が本書を読んで監視社会について考察をするとすれば、「監視社会での思想統制って怖いね、思想の自由や言論の自由って大事だね」という感想から一歩踏み込まなければいけないでしょう。本書では、イングソックに歯向かう人物や不都合な人物がどんどん消されていくわけですが、思想統制が必ずしも拷問を伴って出現するとは限らないわけです。例えば、一般市民には体制側の都合のいい情報や考え方しか提示されず、それ以外の思想、体制の外側を思考する余地すら与えられない、そんな平和な箱庭のような思想統制が存在しないとは言い切れないのではないでしょうか。

一方で、完全に自由な言論・思想の自由というものはないというのもまた事実です。やはり、我々の社会にはいつの時代にも「良い」とされてる社会規範や思想があるもので、そうした規範・思想に沿って教育がなされ、社会がまわっていく限りは、その時代においてメインストリームでない思想や言論に、完全な自由が与えられのは難しいことです。

結局、人間が生きていくために形成していく社会における規範と、個人の思想・言論の自由については、いつの時代もそのバランスを手探りでとっていくしか方法がないのではないでしょうか。

 

●そもそも、なぜオーウェルは『1984』を小説にしてしまったのか?

論点は変わりますが、もう一点、この小説の難所だと個人的に感じたのは、この小説が小説である必然性があまり感じられないということでしょうか。

チェコの亡命作家であるミラン・クンデラも「オーウェルが『1984』で伝えたかったことは、パンフレット等の別形態での方がうまくやれた」というような趣旨の指摘をしていたようですが、個人的にはクンデラに全面的に賛成です。

往々にして、個人の思想を小説の中に溶け込ませようとすると、思想の方が存在感をもってしまい、登場人物がただの舞台装置になって個を失ってしまい、小説としての魅力が消えてしまう、というような事態が起こりがちです(その融合を高度なレベルでやってのけたのが、ドストエフスキーだと思います)。

本書もその例にもれず、そもそも小説として読んだときの面白さはあまりないような気がします。多少面白いといえば、第二部のラストくらいのもので、主人公とジュリアのラブ・ロマンスの詳細な記述などは不必要とさえ感じてしまいました。

 

●総評

長々と感想を述べましたが、小説としての面白さを追求するなら、本書を読む必要性はないと思います。現代教養のひとつだと捉えれば、一度読んでおいた方がいいのではないでしょうか。