元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

車輪の下

車輪の下ヘルマン・ヘッセ(高橋 健二 訳)

オススメ度 ★★★★☆

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前回記事から少し間が空いてしまいました。今回はヘッセの代表作『車輪の下』についてつづっていきます。

本作のテーマは、青年期における自我の確立ではないでしょうか。ドイツの神学校での寄宿生活が描かれているにもかかわらず、現代日本人の読者も主人公ハンスやその周囲の青年たちに共感の念を抱く部分があるのは、近代人にとって避けては通れない主題が取り上げられているからでしょう。

車輪の下』という一風変わった題名は、物語の中盤あたりで神学校の校長がハンスにかける言葉からとられていることがわかります。

「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね」

結論からいうと、ハンスはものの見事に車輪の下じき」になっていきます。この「車輪」が何をあらわしているかは物語中では明示されません。しかし、青年期のハンスに萌芽した自我は、萌芽したそばから(あるいは萌芽せぬうちに)、周囲の大人だとか社会制度、伝統や権威だとかいう、大きくて重いものの下じきにされ、ハンスに苦しみを与えていったのです。

 

以降ネタバレありです。

上述のように、本作は主人公ハンスがどんどん「車輪の下」に敷かれてく様子を少年期から青年期にかけて描いたものです。少年らしい遊びを禁じられて勉強を強いられる様子もそのひとつですが、ハンスの運命を決定づけたエピソードは、神学校の友人ハイルナーとの友情が壊れたところだったのではないでしょうか。

ハンスにとってもっとも親しい友人であったハイルナーは、神学校であるもめ事を起こした罰として監禁処分を受けます。ハンスは友人を密かに訪問したいと願いながらも、「友情の義務と功名心との戦いに負け」て、ハイルナーの期待を裏切ります。なぜならハンスの理想は「群を抜き、試験で名をあげ、一役演ずることであって、ロマン的な危険な役を演ずることではなかった」からです。

つまり、ハンスがめざしていたものは、社会に成功者と認められる道であり、そのような周囲の目に反してでも自分なりの幸せをつかむ道ではなかったのです。しかし、ハンスのこの理想と、ハイルナーとの友情から受け取るものとの間の歪みはハンスの中で日に日に大きくなっていき、最終的にはハンスは神学校をドロップアウトすることになります。

対してハイルナーは、元から社会的な成功などクソ食らえ!という性格で、周囲に流されず自分のやりたいようにふるまいます。ハイルナーは神学校を放校処分となりますが、最終的にはひとかどの人物となったことが作品内で明らかにされています。

もしハンスがハイルナーを裏切らずに自分の信じる道を見出すことができていたら、せまりくる車輪などものともせずに自分の人生を歩めていたのかもしれません。あるいは、もしハンスがハイルナーを裏切ったのち、ハイルナーの影響など忘れて自分の目標に邁進することができていたら、自らも車輪の上にたち社会の一部としての役割を全うしたかもしれません。しかし、繊細なハンスはそのどちらにも行けなかったがゆえに、疲れきって車輪の下じきになってしまうのです。

ちなみに、本作はヘッセの自伝的小説でもあり、若きヘッセの内なる葛藤の軌跡はハンスに、葛藤の末に自らの信じる道を切りひらいた姿はハイルナーに投影されています。

 

神学校をドロップアウトしたハンスは、故郷に帰り機械工見習いとしてのキャリアをスタートさせます。しかし、仕事仲間と飲み会に行った帰り道、泥酔したハンスは川に落ちて死んでしまいます。

ハンスの死が事故だったのか自殺だったのかは判然としません。救いのない結末ではありますが、社会的な成功を約束された道から逸れ、自分がかつて選択肢から切り捨てた故郷での生き方にもなじめなかったハンスにとって、安住の地は死にしかなかったのかもしれません。