金閣寺
『金閣寺』三島 由紀夫
オススメ度 ★★★★☆
久しぶりに日本文学を読みました。
なんとなく翻訳ものを読みがちなんですよね…。
三島由紀夫を読んだのは実はこの『金閣寺』が初めてなのですが、『金閣寺』の場合は日本文学といっても「美」の観念だとかイデア論的なものだとかが根底に流れていて、当時の文化人らしく西洋哲学の影響を受けているところが大きいのかな、という印象でした。ただ、欧米人から見ると太宰と違って「ミシマはどこかエキゾチックだ」という感想を抱くらしいですが…
『金閣寺』の主人公は溝口という寺の息子で、自分の醜い容姿と吃音にコンプレックスを持っています。父が亡き後は父の旧友が住職をしている金閣寺で坊主をやっています。この小説は現実の事件である金閣寺放火事件にインスピレーションを得ていて、最終的に溝口は金閣寺を放火するのですが、放火をしたあとに過去を回想して文章を書いているというたてつけになっています。
肝心の主人公ですが、私はあまり共感できませんでした…。
●独りよがりな主人公の性格
『金閣寺』では、物事がすべて溝口の視点から語られていて、読者は主人公による世界の切り取り方で溝口の過去を追体験する構造になっています。そして、「あのときの出来事がこういう展開になっていれば私は…」という言い方で過去を語る箇所がいくつか出てきます。
象徴的なのが、序盤で有為子が最期を迎えるシーンでしょう。第二次大戦中の戦時下で、有為子はとある脱走兵と恋に落ち、子どもを身ごもったことがバレて憲兵に捕らえられてしまいます。やがて脱走兵の居場所を明らかにした有為子は、憲兵や野次馬を先導して脱走兵の居場所に連れていきますが、そこでさらなる事件が起こります。
……有為子は渡殿を渡って、御堂の闇へ呼びかけた。男の影があらわれた。有為子は何か語りかけた。男は石段の途中へ向けて、手にしていた拳銃を撃った。これに応戦する憲兵の拳銃が石段の中途の繁みから発射された。男はもう一度拳銃を構えると、渡殿のほうへ逃げようとしている有為子の背中へ、何発かつづけて射った。有為子は倒れた。男は拳銃の銃先を、自分のこめかみに当てて発射した。
このときの出来事を、溝口は「有為子は、もう一度私を、われわれを裏切ったのだ。」と描写していますが、果たして有為子は本当に土壇場になって考えを改めたのでしょうか? 個人的な見解ですが、有為子は初めから恋人と心中する心づもりで居場所を教えたのではないかと思っています。同じ女性から見て、この極限状態のなかで一度決めたことを短時間でもう一回ひっくり返すというのは、あまり現実的ではない気がします。
事実はどうであれ、溝口にとってこの有為子の「二度」の裏切りは揺るぎのない事実であり、この事件がのちに放火犯となる自分に少なからぬ影響を与えたことを告白しています。しかし、この「二度」の裏切りは溝口にとっての真実であり、別の人は私のように「有為子は最初から心中をするつもりで居場所を明かした」と感じたかもしれません。溝口はいつも、放火犯になるまでには外部世界からの干渉があったことを示唆するのですが、それは常に外部世界の出来事を感じ取る自分自身の主観でしかないのです。ここが、いまいち主人公の溝口に対して私が共感を覚えかねた理由だと思います。
溝口の主観(感覚)が常に正しいものでないことは、鶴川の自殺が発覚するシーンからもうかがえます。吃音や容姿のせいで外部世界との関わりに困難を覚える溝口にとって、鶴川は自分と外部世界をうまく媒介してくれる数少ない友人でした。鶴川は東京に帰省したときにトラックにはねられて死んでしまうのですが、のちにそれがままならぬ恋を思い悩んでの自殺であったことが示唆されます。溝口が考えていた鶴川という人物と、鶴川の抱えていた闇の部分とのギャップに驚く溝口の様子は、小説内でも描写されています。
●ラストシーンの賛否
溝口は金閣寺に対して並々ならぬ執着をもっていました。それは醜い自分とは対照的な「美」のイデアとして金閣寺をみなしていたためであるところが大きいようです。金閣を燃やすまでの心の動きは小説内で描写されているものの、私にはよくわかりませんでした。溝口自身も「放火犯のような狂人の心理を分かってもらえるとは思わない」ようなことを記述しているので、三島自身も読者に溝口の機微を説明する意図を持っていたわけではないのかもしれません。
とにかく、「金閣を焼かねばならぬ」という想念に取りつかれた溝口は、金閣寺への放火を実行し、最上階部分で自分も死のうと思い立つのですが、最上階の部屋の鍵があかず侵入できなかったため、北方の山へ逃げるところで物語が終わります(実際に金閣寺に放火をした犯人も、山中で発見されたそうです)。
読者のなかには「溝口を金閣寺とともに燃やした方が物語としてよかったのではないか」という声があるようですが、個人的には小説通りの終わり方で良かったのではないかと思います。
溝口が金閣寺と「心中」を果たすとすれば、それは醜い容姿に悩む溝口と、溝口にとって「美」のイデアである金閣寺との主客合一となり、ある一面では溝口の魂を救済するハッピーエンドになっていたのではないでしょうか。
ローマには「骸骨寺」と呼ばれる教会があり、その名の通り地下の祭壇が無数の修道士の骸骨でできているという(日本人の目から見れば)グロテスクなシロモノがあるのですが、これは見ようによっては信仰に生きた修道士が死後に信仰の対象を構成するものの一部になるという「胸アツ」ストーリーでもあります。
溝口と金閣寺の関係は、この修道士と祭壇の関係と同じです。確かに「溝口の死」によるフィナーレは、劇的で華々しいラストとなるかもしれませんが、溝口という男にこの美しいフィナーレは似つかわしくないのです。
溝口は自分の憧れでもある金閣寺に拒絶され、山中に逃げて煙草を吸いながら「生きよう」と考えます。この「生きよう」にも様々な解釈の余地がありますが、金閣寺への放火という仕事を終えた一種の清々しさと、それを凌駕する喪失感、憧れの対象からの拒絶を受けた哀しみが支配するラストシーンこそ、『金閣寺』のラストにふさわしいのではないでしょうか。