元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

斜陽

『斜陽』太宰 治

オススメ度 ★★★★☆

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実は大学生の頃にも一度読んでいた『斜陽』。

今回、友人と読書会をするにあたって、もう一度読んでみました。

最初に読んだときは、正直何も分からず、今回読み直すにあたってもまったく内容を覚えていなかったのですが、いま一度読み直すと違ったものが見えてきますね。

太宰の生い立ちと『斜陽』が執筆された当時の日本

太宰の人生についてはご存知の方も多いと思いますが、ここで振り返っておきたいと思います。なぜなら『斜陽』を読んでいくにあたって、太宰の生き様や当時の社会を知っておくことが非常に重要に思われるからです。

詳細は、新潮文庫版の奥野 健男氏の解説をご覧いただきたいのですが、太宰が裕福な家の六男に生まれたこと(父親は貴族院議員→衆議院議員)、そして戦後の動乱のなかで階級制度が廃止されたことが本作を読み解くには重要な気がしています。

一つ目について。大地主の家に生まれた太宰は、豪壮な家に住み、三十人もの使用人をしたがえ、ある種の特権意識を抱いてもおかしくない環境で育ったようです。一方で、六男というのは家を継ぐ見込みのあるポジションではなく、したがって太宰もまともに扱われなかったようで、父母よりも下男や召使に親しむ幼少期を送ります。このような家庭環境が太宰に「特権階級でもない、かといって庶民でもない」という疎外感を与えたのかもしれません。

そのような中途半端なアイデンティティを太宰が抱えるなか、戦後の日本では貴族階級が廃止されます。いままでも宙ぶらりんなアイデンティティに悩まされてきた太宰ですが、今度は社会制度自体が特権階級の存在を否定したのです。

 

『斜陽』の主人公かず子

皆さんもお気づきかもしれませんが、『斜陽』の主人公かず子は、この太宰のアイデンティティ・クライシスみたいなものを、如実に写したキャラクターだと言えそうです。

かず子は元華族階級のお嬢さまですが、戦後の社会の変容で自身の地位を失い、財産も失い、母親とともに東京の生家をひき払って、伊豆の山荘に移り住みます。そこでは使用人を雇うこともなく、自分たちの身の回りの世話は基本的に自分たちで行わなくてはなりませんでした。戦時中はヨイトマケにも従事したかず子は、「最後の貴婦人」である母親とは違い、自分は名実ともになんだか庶民階級に近づいていると感じています。一方で、伊豆の山荘の周囲に住む農家の人々や、弟の直治がつるんでいる人々のような「本物の」庶民からは「元華族」という目で見られ、真に庶民階級に同化することもできていません。

戦後の日本というあらゆるものの価値観が転倒していくなかで、かず子は自身のアイデンティティと、無意識的に対峙していかなくてはならないのです。

ここまで読むと、なんだかかず子が自らの運命を切りひらくスーパーウーマンのようにも思えてきますが、かず子はあくまでも受動的です。2019年のディズニー映画の『アラジン』では、かのジャスミン姫が "I won't go speechless(私は沈黙しない)"と歌いあげますが、かず子にはそのような強さはありません。むしろ、本書を通して読み取れるかず子はどこか幼い印象で、自身のアイデンティティをめぐる闘争にも無自覚で、自身の「革命」の完成を「こいしいひとの子を生み、育てること」という、自分ひとりでは完結できない行為を定義として語っています。ただ、戦後日本において婚外子を生んで育てる(しかも元華族のお嬢さまが)ということはセンセーショナルな出来事だったと考えられるので、現代の我々の目には頼りなげに見えるかず子も、太宰の同時代人の目には違ったように見えたのかもしれません。

 

貴族として死ぬこと

もうひとつ、『斜陽』を読んだときに印象にのこるのが、かず子の弟である直治の自殺ではないでしょうか。この直治も、幾度となく自殺未遂をくり返し、最後には入水自殺を遂げた太宰本人にかさなるところがありますよね。

さて、直治がかず子にあてた遺書が『斜陽』の第七章に収められているのですが、この締めくくりとなる「姉さん。僕は、貴族です。」という文言が特に印象的だと思います。

『斜陽』のなかで、貴族とは「滅びゆくもの」「旧体制」の象徴です。麻薬中毒に苦しみ、女遊びにふける直治はとてもお上品な上流階級には見えませんが、著者である太宰同様、遊び仲間が属する庶民階級に同化していくこともできなかったのだと思います。このことは、直治が遺書で「遊んでも少しも楽しくなかった」と告白するところでも読み取れます。しかも、かず子と異なり、直治は自身のアイデンティティの闘争に自覚的です。直治の自殺は、ふるい価値観への殉教であり、自分がどうしても手放せなかった誇りとの心中だったのかもしれません。自殺という道を選択した直治ですが、ある意味ではかず子よりも強さを感じるのは、なんとも不思議です。

 

蛇のモチーフ

『斜陽』では、蛇のモチーフがくり返し登場します。文学研究的には、この蛇のモチーフについてもいろいろと議論・考察ができそうです。

『斜陽』にはキリスト教的なモチーフが多く登場します。聖書の引用がいくつか行われている上に、かず子が「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます」と上原への手紙に記しています。

作中に度々登場する蛇にしても、不吉・嫌悪のイメージで語られており、キリスト教のモチーフの中に数えられるのかもしれません。ただ、蛇は日本古来から畏敬の念とともに嫌悪感・恐怖心の対象でもあったようなので、一概には断定できないかもしれませんが。

 

太宰が直面し、『斜陽』のなかで描いたアイデンティティ・クライシスは、今後とんでもないスピードで発展していく現代社会に生きる我々にとっても身近なテーマだと思います。『斜陽』は戦後の日本の社会を色濃く反映する小説でありながら、この小説が語りかけるテーマが古くなることは当分なさそうです。