元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

二重に差別されている女たち ないことにされているブラック・ウーマンのフェミニズム

『二重に差別されている女たち ないことにされているブラック・ウーマンのフェミニズム』ミッキ・ケンダル(川村 まゆみ 訳)

オススメ度 ★★☆☆☆

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まず最初にお断りしておきたいのですが、ここでオススメ度を★2という低評価にしたのは9割翻訳のせいです。正直、まともに校正をしているのか疑うレベルです。本書のように時代性を反映するような話題を取り扱っている作品は、翻訳の時間もタイトになりがちなのかもしれませんが、最低でもきちんとフェミニズムとか人種差別について、きちんと知識があるorリサーチができる翻訳者を選定すべきと感じました。原書との読み比べはしていませんが、本書を読むなら原書(原題"Hood Feminism")で読む方が良さそうです。ちなみに、治部れんげ氏による日本版解説も、個人的にはやや的外れだと思っています。理由は後述します。

 

肝心の中身に関してですが、邦題からもわかるように「女性」と「黒人」といういわば二重の十字架を背負った女性たちがいかに困難を感じているか、それに対してコミュニティの外部・内部からどのようなアプローチが必要かについて、様々な角度から著者(シカゴの黒人コミュニティ出身)が意見を述べるものです。どちらかというと、「黒人」であることの十字架についての記述に重きが置かれている印象なので、いわゆる「フェミニズム」を想定して本書に入ると、やや肩透かしを食らったような印象を受けるかもしれませんが、日本にいる我々では知ることがあまりできない現代アメリカ社会の病巣のようなものが垣間みえます。そのあたりに興味がおありであれば、一読の価値アリです。

 

●現代アメリカにおいて「黒人女性」として生きるということ

著者であるミッキ・ケンダルは、アメリカにおいていわゆるメインストリームのフェミニズムが、白人女性のためだけのものであることを指摘します。彼女たちが主張するように「女性も社会に出て、男性と同じように賃金をもらい、男性と同じような社会的地位を獲得しよう」という言説は、家事・子育てなどを有色人種の女性に外注できる「特権」を持つからこそ成立するものであり、明日食べるものにも困るようなギリギリの暮らしのなかで生活している有色人種の女性のためにはなりません。結局、白人女性によるメインストリームのフェミニズムは、現状ある面で白人のもつ「特権」を強化する方向に作用しているので、有色人種やイスラム教徒などすべての女性を包括するようなフェミニズムへと変化すべく努力しなくてはならない、というのがおおまかな著者の主張の骨子です。

その上で、有色人種の女性(特に黒人やラティーナ)が銃による暴力・貧困・教育への不十分なアクセス・住宅問題などにどのように悩まされてるかについて、自身の経験をまじえた議論が展開していきます。社会に蔓延している人種ごとのイメージ(ラティーナは性的に奔放、黒人女性は早熟で強い、など)があるので、このような女性が暴力の被害にあったり貧困にあえいでいたりしても、支援できるリソースをもつ側(主に白人)が支援の手を差し伸べなくては、という感情を抱きにくいという事実を著者は指摘します。白人女性が傷つくように、有色人種の女性も傷つくのだから、このような人種差別意識を乗り越えたシスターフッドの必要だ、という主張が全編にわたって説かれます。このあたり、アメリカに住んだことのない日本人には、なかなか実感として理解できない部分もあるのですが、思った以上にアメリカの人種差別問題というのは根が深いのだなぁということを感じさせてくれます。

個人的には第7章の外見に関しての章が最も興味深く感じました。著者は、黒人といってもやや肌の色がうすく、そのことがアメリカ社会では少々有利に働いたようです。一方で、髪質はいわゆる一般的な黒人のような縮れ毛で、周囲の家族も自分自身も縮毛矯正に精をだしていたことを明かしています。黒人女性が外見に手を抜いていると見られることがいかに不利に働くかを、自分の経験や、名のある有色人種の女性に向けられる世間の声から例証していきます。

実は私自身、大人になってからロンドンとドバイに計2年半住んでいて、そのときに日本とちがって海外ではのびのびできるなと思っていました。ロンドンもドバイも多国籍の都市なので、イスラム教徒、極東アジア人、東南アジア人、欧米人とそれぞれがそれぞれの格好をしていて、街を歩くときのファッション的な同調圧力みたいなものが少なかったからです。日本では、だいたいみんな流行の服を着ていて、髪の毛もきれいにセットして、爪もきれいにして…とそれなりに身ぎれいにしていることへの金銭的・時間的コストが高いと思います(もちろん、それはそれで楽しいことでもあるのですが)。でも、いま思い返してみると、それって私が日本のコンテクストから逃れたために窮屈さがなくなったように感じただけであって、どこのコミュニティにもそれ相応の外見的規範や窮屈さが本当は多かれ少なかれあるんですよね。在外邦人ってよく「日本は窮屈だ」と言いがちな気がするんですが、その一因には日本的コンテクストからの脱出からの解放感は日本から出た時点で感じても、外国人ゆえに在住地コミュニティの暗黙の規範になじむ必要がなかったり、在住地コミュニティの規範に気づくほど滞在歴が長くなかったりして、日本とは別の規範に気づいていないだけというケースもあるのかもな、と思いました。もちろん、長く海外に住んでいて、現地を理解していらっしゃる人もたくさんいらっしゃいますが。

 

●日本版解説について

日本版解説において、治部れんげ氏は、日本でも上記のようにメインストリームがすくいあげていないニーズがあることを指摘しています。これは、よく言われていますね。いわゆるフェミニズムの論客」はきちんと四年制大学を出られるような境遇の女性ばかりで、すべての女性の声を代表しているわけではない、という指摘は以前からありましたし、実際そうなのだと思います。これはこれで日本の我々が考えていかなくてはならない問題なのですが、治部れんげ氏のように、この状況をミッキ・ケンダルの主張する状況と同一視するのは、やや短絡的過ぎるのではないかと思います。これが、日本版解説について私が至らないと感じている点です。

日本でも基本的な生活のニーズに困っている女性はたくさんいますが、日本で苦しんでいる女性と、日本で支援をするリソースを持っている女性とは、多くの場合同じような極東アジア人の容姿をもち、同じ日本語という言語を基本的には問題なく操っています(もちろん今後はそうではないケースもどんどん増加してくるでしょうが)。その場合、白人/黒人(とラティーナ)の場合と違って、困っている側への共感・同情がわきやすいのです。本作でミッキ・ケンダルは、主に人種差別を根とする支援獲得機会の欠如を訴えています。したがって、治部れんげ氏の解説は、日本社会にとって重要な指摘ではありながら、本作の解説としてはやや的外れになってしまっているのです。「黒人」であることの十字架という部分をほぼ無視してしまっていますからね。

治部れんげ氏は、アメリカにおける白人女性によるメインストリームのフェミニストと、日本の大卒女性のフェミニストを同一視して「目をそらさずに読んでほしい」と言っていますが、これも構造をやや見誤っていると思います。日本人女性だって、白人女性によるメインストリームからは外れた存在ではないでしょうか? 先日、イギリス居住歴が長かった友人が語っていたのですが、欧米でのフェミニズムは「レディ・ファーストは私には必要ないわ」という考えなんだそうです(ここは聞いた話なので間違いがあったら教えてください)。男性が保護すべき女性像というのが、フェミニズムの敵なのでしょう。ひるがえって日本では、レディ・ファーストな男性って評価されていると思いませんか? これは日本と欧米のどちらが良い悪いではなく、もともとの女性の扱いに対する文化が違うがゆえに起こっていることだと思います。日本は「俺の後ろを黙ってついてこい」型ですからね。同じくミソジニーを根にもつ文化だとしても、行動の部分で文化的な違いがある日本において、欧米のフェミニズムは本来そのまま移植することはできないものなのだと思います。

 

これからの時代のフェミニズムは、メインストリームの女性のニーズだけでなく、コミュニティごとにうまくローカライズしながら、性別や人種・宗教に限らずあらゆる人々が生きやすい社会をつくるという、もう一段広い視野をもって進めていかなければならないのかもしれませんね。