元・金融OLの本棚

金融業界に返り咲きました。つれづれなるままに読んだ本について語る読書ブログ。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷』恩田 陸

オススメ度 ★★★★☆f:id:jigglejiggle:20210902152626p:plain

夜のピクニック』が面白かったので、また恩田作品を読んでみたいなぁと思っていた矢先に話題を呼んだ『蜜蜂と遠雷』。

 

読んだ感想を一言で表すと

「音楽って小説になるんだ!!」

という素直な感動。

文芸と音楽って、同じ芸術でも伝えるための「言語」が違うというか、どんな素晴らしい音楽でも、言葉にするとありきたりになったりするじゃないですか。

音楽って聞かなきゃ分からないというか。

その音楽が絶妙な形で「文芸」に昇華され、しかも「文芸」にしかできない形で読み手に伝わる本が本作。いや、小説家って本当に凄いですね。

 

※以下ネタバレを含みます。

 

 

 

お話としては、一つのピアノコンクールが始まってから終わるまでを描いたもので、正直ハラハラドキドキするようなどんでん返しが待っているわけでもありません(もちろんコンテストの行方は気になりますが)。それだけに、メインキャラクターとなる4名のコンテスタントの心理描写が大切になってくるわけです。

 

中でも、一番心に残っているのは、栄伝亜夜の第三次予選のシーン。

天才少女と呼ばれながらも、母の死をきっかけに表舞台から姿を消した亜夜は、このコンクールを通して「演奏家」としての自分を取り戻していくのですが、彼女が完全復活を遂げるのがこの第三次予選なんですよね。

最初のショパンの「バラッド」では人間に内在する根源的なさみしさが語られ、一転してシューマンの「ノヴェレッテン」では明るい曲調であるにもかかわらず、人生のめぐり逢い、奇跡のようなものを感じ観客は涙する。そしてブラームスの「ピアノ・ソナタ三番」では人生で待ち受ける波乱万丈と、それでもなお人生を肯定していこうとする人間の強さが描かれ、そして最後のドビュッシーの「喜びの島」。亜夜自身の演奏家としての帰還を喜ぶものでありながら、観客・審査員にもいまここで素晴らしき音楽というギフトを享受する喜びに浸っていたことは言うまでもないでしょう…。

これらが音や曲に対する説明は最小限に、亜夜自身や亜夜の音楽を聴く観客・審査員の心象風景と豊かに絡み合いながら、まるで素晴らしい音楽を本当に「聴いた」かのような圧倒的な質量を伴って読み手に迫ってくるんですね。例え、作品中に出てくる曲を一つも知らなくても。

 

思うに、ここで私たちが「聴いた」音楽は、私たちが自分自身の人生の中で触れ、私たちという人間のどこかにそっとしまっていた「音楽」が、この作品を触媒としてどこからか溢れ、作品と絡み合いながら私たちの中で響いているということなのでしょう。それは「音楽」の形をとっていないにもかかわらず、でもどこまでも純粋な「音楽」として私たちの人生を祝福しているかのように…。

ここまで純粋な音楽の悦びって、ある意味音楽自体を聴いてもなかな得られるものじゃないと思うんですよね。素晴らしい音楽って人それぞれですから。そう考えると、一切音楽を聞かせていないにも関わらず、読み手それぞれの音楽を引き出し、しっかりと音楽を聴かせてしまう「蜜蜂と遠雷」は化け物のような小説だと思います、はい。

 

この小説を読んでからというもの、「ノヴェレッテン」が弾きたくてたまらないのですが、中級までたどり着いてドロップアウトしてしまった私には鬼ムズなので、何とかサントラを聴いてごまかしています。本当は私の理想通りに「ノヴェレッテン」を弾いてみたいけれど…。これも私自身の中にある「音楽」が久しぶりに呼び覚まされたんですかね。あーもっと真面目にピアノのお稽古してればよかった…。

 

というわけで、映画化もされている本作ですが、私は小説で読むのをオススメします。